院政期の財政基盤と守護・地頭制度

まず、日本史のおさらい。

  • 院宮(いんぐう)分国制

院・女院・皇后・中宮などが特定の国の国守(受領)を推挙し、その献納物を受け取る制度。908(延喜8)年宇多上皇信濃国を初見とし、平安後期に急増、鎌倉前期には知行国制と同質化した。

  • 受領(ずりょう)

遥任国守に対し、任国に赴いた国司の最高責任者である守(かみ)や介(すけ)をいう。平安中期、中央官職を藤原氏に独占された中小貴族は競って受領の地位を求め、その徴税権により巨富を蓄え、経済力を背景にやがて院の権力基盤となった。

  • 知行(ちぎょう)国制

国の知行権を特定の公卿・寺社などに与え、その国の正税・官物などの収益を得させる制度。これを得た者を知行国主といい、国守の任命権を得た。平安中期の院宮分国制に始まり、平安後期に急増。院政平氏政権の財政基盤となった。

このような状況だったのですが、平氏滅亡後の1185(文治元)年、源義経・行家追討の院宣を受けた頼朝は、この両名の捜索という名目で、守護・地頭設置の権限を後白河院より得たのでありました。守護として各国に一人ずつ有力御家人が配置され、対する地頭は荘園・国衙領ごとに設置されて土地管理・年貢徴収・治安維持を職務としました。収入は「地頭得分」といわれ、貴族・寺社の荘園や国衙領を問わず兵粮米を一段につき五升の割で徴収できるようになりました。つまり、院政の経済基盤が鎌倉幕府に浸食される契機がここに生まれたということです。