美福門院はなぜ「バカ殿」をpushしたのか?

ええと、誰もが気になることだと思います。ここでちょっと補足。事の発端は崇徳院の次に帝位に就いた(崇徳院にしてみれば自分を退位に追いやった憎き相手)美福門院腹の近衛天皇が17才の若さで夭折したことにあります。

  • 美福門院1117-1160

鳥羽上皇の皇后。名は得子。父は藤原長実、母は源俊房の娘方子。鳥羽上皇の寵を得、近衛天皇らを産んだ。1141年、近衛天皇の即位にともなって皇后に昇り、「国母の皇后」と称された。1149年院号宣下をうけ、隠然たる政治力を保持した。ちなみに俊成の妻は美福門院に仕えていた女房の加賀(美福門院加賀)。

法性寺殿・関白殿とも。藤原忠実(ただざね)の長子。母は源顕房の娘師子。1107年に元服、権中納言権大納言内大臣を経て、1121年に白河上皇の不興を買った父に代わり関白となる。翌年、左大臣従一位。のち崇徳・近衛両天皇の摂政・関白・太政大臣白河上皇死去の後政界に復帰した父忠実と対立を深め、1150年に義絶され、氏長者職を頼長に奪われる。これに対抗するため忠通は美福門院に接近。後白河天皇即位にともなう忠実・頼長の失脚で再び氏長者となり、1158年関白を嫡子基実に譲る。1162年出家。
忠通の時代、摂関家は父弟との争いにより院権力の介入を許し、弱体化していった。書の名手で法性寺流の祖となった。

鳥羽院・美福門院・近衛・忠通・義朝(反崇徳派)VS待賢門院・崇徳・忠実・頼長・為義(親崇徳派)という図式がお成立しており、忠通の耳打ちもあって美福門院は「バカ殿」をリリーフとしてマウンドに乗せるよう強く主張したのでした。崇徳院の皇子に皇位を継がせるなど以ての外。それに女帝を立てずとも、もっと筋に叶った皇位継承者がおりますでしょう?という感じでしょうか。このリリーフはその後3年ほどでマウンドを降りますが、人々の思惑に反していつの間にやら監督となり、試合を采配するようになってしまったというわけ。