法華経の思想は女性差別ではないのか?

 女性を不浄と見なす考え方を比較的初期の仏教経典から挙げてみると、「世には不浄で多くの迷惑があるが、女人の身の性質よりはなはだしきはなし。」(『仏本行集経』「捨官出家品」)、「女人は〈清らかな行い〉の汚れであり、人々はこれに耽溺する」(『相応部経典』)などなど枚挙に暇ありません。
 もともとは釈迦が男性であり、教団が男性中心にできあがったため、女性を修行の妨げとして遠ざけるという意味があったようです。つまり、男を誘惑するものとしての「不浄」観念だったわけですが、中国や日本に仏教が伝わったのち、中国・日本古来の〈血の穢れ〉の観念と結びつき、出産や月経のさいに大量の血を流す女性の存在それ自体を、穢れたものと見なすようになったもののようです。
 その最たるものが、10世紀に中国で作られ、日本に室町期に伝来した『血盆経』という経典(いわゆる偽経)です。出産に際して女人の血が大地の神を汚し、さらに汚れた衣服を川で洗うことで水を汚し、人が知らずにその水を汲んで神仏にそなえ神仏にまで汚れを及ぼしてしまう。その罪ゆえに女は血盆池(血の池)地獄に堕ちるのだ、という(何とも身勝手な)論理。もっともちゃんと救済方法についても言及されており、この女性の身内が追善供養を行えば、血盆池に蓮華が現れて女人は成仏します。また、女性自身が血盆経を書写して身につけていれば、天に生まれ変わることができるともいうのです。15世紀以降、絵解きなどを通じてこの血盆経が盛んにに信仰された形跡が見られます。
 一方で「産まず女地獄」も「熊野観心十界曼荼羅」に登場。その名の通り子どもを生めない不妊の女性(わけあって子供を産むことのなかった女性も含む)が堕ちる地獄です。

 「民間の宗教的儀礼や慣習では、産血も経血も、そのときどきにお籠りやお祓いによって、その穢れを清めることはできた。それは一時的な穢れにすぎなかった。しかし、血と母性を穢れとし、女性の本性を救済しがたい不浄性にみた仏教教説は、永続的に穢れを内在させ、不浄を本性とする存在へと女性を変質させていったのである」(川村邦光「女の地獄と救い」)

 さて、授業でも少し触れた法華経(「提婆達多品」)の「変成男子」という考え方ですが、これは本来成仏できないはずの女人が功徳を積むことによって男性の身体に変化し、往生をとげることができる、というもの。つまり、男性でなければ往生できないので、必要最低限の資格を手にいれることができたというわけです。女人には五障五障(死後に梵天王、帝釈天、魔王、転輪王、仏の五つになれないこと)があるから成仏できない、という説と「変成男子」の概念とどちらが先に生まれたのかは不明だが、女性たちは「提婆達多品」ほかの転女成男を説いた経文を読み、穢れた女の身体から解脱し、男性と変じて成仏することを願っていたようです。この「変成男子」の教えは女性の救済を目的としてはいたものの、女の身体のままでは成仏できない、という形でむしろ女性差別を助長していたとして、近年フェミニズムの視点から、『血盆経』ともども批判を加えられることが多いようです。当然と言えば当然ですよね。