崇徳院と天狗

この点について関心を持った人が多いようですので、簡単にご説明。
讃岐に流された崇徳院は、保元の乱を起したことへの反省と死者への供養のため三年かかって五部大乗経(『華厳経』『大集経』『大品般若経』『法華経』『涅槃経』の五経典。これを書写するのには大変な労力を要するので、相当な功徳があると信じられていた)を書写し、これを都の寺に納めて欲しいと一首の歌を添えて、京へ送りました。
 浜千鳥跡はみやこにかよへども 身は松山に音をのみぞ鳴く
(自分の筆跡(=経典)は京都に送るけれど、この身は松山でただ泣くばかり)。
ところが、朝廷ではこれを「崇徳院の呪詛である」として受け取らず讃岐へ送り返してしまいます。崇徳院は嘆き怒り、舌先を噛み切った血で経文に「三悪道に抛籠、其力を以、日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」(地獄・餓鬼・畜生の三悪道になげうち、五部大乗経の功力を以って、日本の大魔王となり、天皇を貶め、民に天下を取らせよう。)と記したと『保元物語』(金比羅本)にあるのは授業で見たとおり。つまり五部大乗経の功力を悪の道に捧げると宣言したわけです。『保元物語』ではその後、崇徳院は髪・爪を切らず生きながらにして天狗となり、その結果平治の乱が起こったとしています。
讃岐に流されて八年で崇徳は憤死。この世に並々ならぬ恨みをもって死んだ人間が音量となって災いをなすというのは当時の一般常識ですが、実は『保元物語』が成立するまで崇徳の怨霊はそれほど意識されていなかったようなのです。怨霊となった崇徳院の一番の標的である後白河天皇は「崇徳院が讃岐に流されたのも、藤原頼長が戦死したのも当然の報いだ」といったただの罪人という姿勢でいたそうで、朝廷も「罪人」崇徳の死に対しては服喪せず無視したとの記述が九条兼実の日記『玉葉』にみられます(世間はこういった朝廷の姿勢にかなり反発したようです)。
ところが、安元三年(治承元年)、翌治承二年と立て続けに京都において崇徳の祟りとされる大火災が起こります。この火災は「太郎焼亡」「次郎焼亡」と呼ばれますが、この「太郎」「次郎」というのは愛宕山・比良山に棲んでいる大天狗の名前。この頃すでに都では崇徳と天狗の関わりが深く意識されていたことがわかります。太郎焼亡では天皇が即位するために必要な場所である大極殿が焼失し、「天狗となった崇徳院が祟っている」という噂が現実のものとなった頃から崇徳院の怨霊(すなわち天狗としての崇徳院)がかなり意識されるようになったといえるでしょう。
次いで後白河院の側近が平家打倒を企てた鹿ケ谷の密議が発覚し、首謀者は清盛によって全て捕らえられ処罰されました。精神的に追い詰められた後白河院はこの年、遅まきながら、院になれなかった崇徳に対し「崇徳院」の追号を贈ります。これは無実の罪で死んだ菅原道真正一位左大臣太政大臣にまで昇格させたのと同様で霊を慰める効果があると信じられていたのです。