マザコン定家

異父兄弟である隆信と定家は、共通の母親(というのも変な言い方ですが)である美福門院加賀の死を悼んで歌のやりとりをしています。ここで『隆信集』をみてみましょう。

ははに侍りし人、こころざしはかたみにおろかならずながら、中将なりいへ、さだいへなど、そのいもうとたちもあまたうちつづきいできて、のちはわが身ひとつ、ちちかはりたる身にて、いと心ぼそながら、それにつけてもいよいよ心ざしはあさからずおもひかはしてすぎ侍りしに、心よりほかなることによりて、としの三とせまであひむかふこともなかりしを、たまたまなかよくなりて、ひごろ月ごろのうらみもわすれて、あはれにかなしくのみおもふほどに、そのとしのきさらぎのころ、はかなく見なしつるを、かかりけるものゆゑ、みとせまでいぶせくてすぎにけるかなしさも、いよいよかぎりなく、又ありありてかくいまはのときにもなかよくなりて、のちのわざなど、ほいのままにみやづかひつるおやこのちぎりのふかさも、ひとかたならずおぼえて、法性寺といふところの山のおくにをさむとて、なくなくおぼえける
みとせまでこひつつみつるおもかげをあかでや苔の下にくちなん(414)
おのおのいみにこもりあへるなかに、少将さだいへ、このははのおぼえなりけるを、かの少将ことわりもすぎて思ひかなしみて、わが身ひとつのことになむ侍りけるとて、いたうなげきしづみて、ひとつうちなれど、ふみにかきつづけていひつかはしたるをみるにつけても、いとどかなしさまさりて、かへりごとにかきそへ侍りし
かずならぬ身にだにあまるかなしさは君をとふべきことのはもなし(415)

隆信は「自分だけが"父変はりたる身"である」という引け目を感じつつ、何かの行き違いがあって三年間逢うことができなかった母の死を悼んでいるのですが、定家は「この母の覚え」すなわち秘蔵っ子であったこともあって、その悲しみは並々ならぬものであったようです。