顕徳院から後鳥羽院へ

さて、この諡号は何を意味するのでしょうか。
院政〜鎌倉期に「徳」という諡号を贈られた天皇として名前が挙げられるのは、崇徳・安徳・順徳そして顕徳の4人ですね。崇徳天皇保元の乱に敗れて讃岐でその生涯を終えました。安徳天皇も幼くして壇の浦に沈みました。順徳天皇承久の乱に敗れ、佐渡配流の身となりその地で亡くなくりました。「徳」という諡号には、非業の死を遂げた霊を慰め、怨霊化を防ぐための意味があると考えられるでしょう。君よ「徳」をもって民を安んぜ給へ、という願いがこめられていたわけです。
承久の乱の首謀者で、隠岐に流されて死んだ後鳥羽院には、一旦「隠岐院」とされたのですが、その後「顕徳院」と諡号が贈られました。ここまでは当初「讃岐院」と呼ばれていた崇徳院と同じですが、その後「怨霊を恐れて」という理由で「後鳥羽院」と追号を贈られているのです。ちょっとややこしいのですが、おそらく、これまで「徳」の字をつけた天皇が怨霊化したケースが多かった(と信じられていた)ため、本来は怨霊を鎮めるための「徳」の字が、いつの間にか怨霊を表すものと理解されるようになったということなのでしょう。