「地獄ゑを見て」

20711123ハシモトさん
おっ、なかなか鋭い質問ですね。

1916 なほたのめしめぢがはらのさせもぐさ我がよの中にあらむかぎりは
1917 なにかおもふなにとかなげく世中はただあさがほの花のうへの露
      このふた歌は清水観音御歌となんいひつたへたる
(『新古今和歌集』巻十九・釈教歌)

2620 弥陀たのむ人はあま夜の月なれや雲はれねども西にこそゆけ
      是は、真如堂にまうでて超世の悲願のたのもしきことをおもひ
      ながら我が身の業障おもき事をおそれ思ひてまどろみて侍り
      ける夢に、けだかき御声にてつげさせ給けるとなん
2621 極楽へむまれんとおもふ心にて南無阿弥陀仏といふぞ三心
     これは石清水社にまうでて念仏往生のことを祈り申しける人の
     夢にかくなんつげさせ給ける
(『玉葉和歌集』巻十八・釈教歌)

という具合で、左注で歌を詠んだ人??が観音だった云々と正体が明かされます。赤字部分を見るとわかるように、「夢」がキーワード。酒井紀美『夢語り・夢解きの中世』に詳しく述べられていますが、中世において、「夢」はこの世とあの世、神仏と人間世界をつなぐ通路であったので(「夢の通ひ路」なんて言葉もありますね)、「夢想」とか「夢の告げ」は絶対的だったのです。